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品覚寺にようこそ

  天正5年(1577)津久茂雑喉(ざこ)ヶ浜前の竹林を切り開いて住んでいた僧円寿が、地蔵を守り本尊とし、真言宗の海見山地蔵院品覚寺を開きました。この円寿より三代目に至って真宗に改宗し、観海山品覚寺となり現在に至っています。

現住職慈潤は第十五代目です。

  昭和56年7月4日午前6時半、連日の雨で緩くなった裏山が崩れ、本堂が倒壊しました。ちょうど朝事(あさじ)にお参りのご門徒さんが下敷きになり、死者4名負傷者9名という大惨事が起こりました。住職や坊守、前坊守はお参りの直前で、目の前でこの惨事を見ることになりました。負傷者等の救出に、地元の方々や自衛隊の方々が活躍されました。また全国からたくさんのお見舞いや励ましをいただきました。その後すぐに再建の話が上がり、ご懇志を募り、昭和58年に今の本堂が再建されました。決して忘れてはならない災害であるとともに、多くの方々に感謝してもし尽くせな思いでいっぱいです。

  品覚寺には「津久茂帳」という貴重なものがあります。明治37年、海軍艦艇「吉野」と「春日」の追突事故が起こり、品覚寺で追悼法要を営んだことをきっかけに、多くの海軍兵学校の生徒が訪れるようになりました。海軍兵学校から徒歩で行くこともでき、生徒達にとっては休日の憩いの場にひとつでした。寺を訪れた生徒達は、寺の記名帳に名前を記すと同時に、そのときの心境などを書き添えるようになりました。その和綴じの帳面は「津久茂帳」と名付けられ、明治37年(1904)から昭和20年(1945)までの記名簿は21冊、記録された名は3000人余りにのぼります。太平洋戦争末期には、出撃を前にして決意の思いをしたためた一文もあり、歴史の生の声を伝えています。戦後は旧海軍関係者や海上自衛隊の隊員が訪れるようになり、記帳は現在まで続けられています。「津久茂帳」は希望すれば閲覧できます。

                             参考 津久茂小学校百周年記念誌  呉・江田島歴史読本(新人物往来社)